仲島陽一さんの書評
仲島陽一さんの書評
栗川治著『障害と能力』を読んで(読書ノート)
仲島陽一(哲学者)
著者の栗川治氏は、早稲田大学の哲学科を卒業後、出身の新潟県で社会科の教員になった。先天性の目の障害があったが、就職後に顕在化してほぼ全盲状態に至った。
盲学校の教員に移ったが、その後高校の教員に復帰し、教職を務めつつ、障害を持った教員への差別をなくす運動にも積極的に取り組んだ。
定年後、立命館大学の大学院に進学し、博士課程を修了した。本書はその博士論文によるものである。他の著書として『異彩はバリアフリー』、『視覚障碍をもって生きる』などがある。
本書は、障害教員運動史の研究であるとともに、「能力の社会モデル」という観点から「異在労働同一賃金」の理念の有効性を考察したものである。
第一部は「障害教員運動史研究の課題」、第二部は「日本における障害教員運動の歴史」、第三部は「障害教員運動の主張」からなる。
第二部は障害教員運動史が、先行資料を総括するとともに独自の聞き取りなども含めて総括されている。この領域で今日最も豊富な文献として、、今後この領域(および隣接領域)の研究に不可欠となる業績であろう。
それについては今後専門家の検討や評価も現れるであろうから、私としては以上を言うだけにとどめる。
思想的論点としては、「能力の社会モデル」が中心であり、竹内章郎氏の諸著作も参照されている。哲学者が最も関心を持つ部分であろうが、これについても私は敢えて触れないことにしたい。
そして私の中心的題目ではないが、それゆえ新たに考えてもみたい問題をとりあげたい。経済学的問題と法哲学的問題である。
栗川氏は障害者差別のなかでも賃金の問題をここではとりあげている。健常者と同じ、あるいは同等の労働ができないという理由で雇用が拒まれたり、低い身分(教員なら「教諭」でなく「講師」など)に限定され(低賃金にされ)るという問題である。
これに対し氏は、「能力に応じ働き必要に応じて受け取る」という社会主義ないし共産主義的な原理ならありえないとしつつ、資本主義体制のなかでも乗り越え不能ではないとして、「異材労働同一賃金」の理念を提出する。
この前提はもっともであろう。仮に社会主義に賛成する立場でも、それがすぐに実現するとは思うまいし、また反差別運動を反資本主義運動に還元することの不適切さないし不当さは認めるであろうからである。
さてまず感じられるのは、栗川氏が「労働の価値」を言うときの概念の不明確さである。ここで主に問題にされている賃金にかかわるなら、それは経済的市場「価値」でなければならない。
日常語でも今年の就職は「売り手(買い手)市場」であるなどという。今日の高校教科書は市場機構を示すグラフで、物やサーヴィスと並べて、労働(力)市場、金融市場と三つ挙げるものが多い。
共通して横軸は需給量であり、縦軸は第一のものは価格、第二のものは賃金、第三は利率となり、それぞれ枠内に二本の線が引かれる。近代経済学でも少なくとも事実上労働(力)が商品と認められていることが示されている。
そしてその際の価値は客観的な市場価値である。それが主観的な「効用」によって構成されるとする学説もあるが、構成される対象はいくらで売られているかという交換価値であって、爺さんの形見だから「価値が高い」というような所有者個人の価値観の問題ではない。
そこで賃金を考えると、それを「労働の価値」でなく「労働力の価値」ととらえたことがマルクス経済学の重要な点であると、その学派の本ではたいてい強調されるが、栗川氏は知っていないようにみうけられる。
「同一労働同一賃金」は資本主義のむしろ原理であるから、「異在労働同一賃金」を資本主義内でどのように正当化できるか。
この場合労働力は社会的平均であり、特定の労働者がたとえば手際が悪くてひとより多くの労働力で作った商品がだからより高く売れるわけではない、というのは入門書の但し書きである。
すると同じ「成果」を得るのに障害者が人一倍の労働力を費やすとしてもだからより価値があるわけでなく、逆にいえば労働量当たりの賃金は低くて当然となる。
その反例はあるか。考えられるのは女性の賃金である。単純な性差別によるものを度外視すれば、賃金格差を正当化する論拠としては、生理休暇や深夜労働の制限などで「同一労働」でないから、という理屈があろう。
しかしこれは今日はあまり有効とされないが、その際経済的にはどんな事情がこの理屈を乗り越えさせたのか。考えられるのは社会的再生産の考慮であろう。
資本主義が一代で終わってしまわないためには、育児などが必要である。これを専業主婦の勤めとするなら夫にその分の賃金を支給しなければならず、また女性が低賃金で長時間労働を余儀なくされるならば出産や育児などにしわ寄せがきて労働力の再生産が難しくなる。
この意味で男女が厳密に同一労働でなくてもそのことで差別しないのは、資本主義経済の論理からも妥当性を持つ。
しかしほぼ半数である女性と異なり「マイノリティ」である障害者は、社会的再生産の論理からは「切り捨て」られやすいであろう。ここで考えられることが求められるのが、賃金が「労働力の価値」であることの意味である。
これは労働力の再生産に必要な(商品の合計の)価値である。すると平均的労働者(健常者)が一労働日の労働力を再生産するのに必要な労働量が四時間で、ある障害者が八時間だとしよう。
するとこの障害労働者には同一賃金で平均の半分の勤務を与えることが正当化されよう。しかし雇い主は、同じ賃金で半分の「成果」しか得られないのではやっていけないという論理でこれに抵抗するであろう。
思い出されるのは、労働価値説に立つスミスでも投下労働と支配労働との概念的混乱があったことである。労働者は投下労働で支払われなければ生活が続かないが、
「価値の実現」を目的とする資本家からは支配労働で考えたくなり、スミスではこの区別がはっきりしなかったということであろうか(本書71頁では支配労働説が前提されているように読める)。
投下労働の観点からは障害者の「異在労働同一賃金」は正当化され得るが、その実現を阻むのは生産物価値の実現すなわち利潤獲得を優先的生産目的とする経済倫理であった。
これを乗り越える論理は、人権としての労働権であると、私は考える。労働が義務であるという法規定はわかりやすいが、権利でもある(日本国憲法でも)というのはそうではない。私は従来授業ではハローワークの例などで説明してきたが、障害者の就労の問題もここに含めるのがよいのではなかろうか。
ここで指摘できるのは、人権そのものは社会主義を前提するものではなく、市民社会の論理であることである。思うに市民革命などによって法制度に入ってきた「人間」概念は発展的なものである。
すなわちこの「人間」にはもとは無視されていた女性が入り有色人種が入ったように、障害者も包摂されるというのは当然である。障害者の「異在労働同一賃銀」は市場の論理からは導出されなくても、労働権と生存権を含む人権の論理によって正当化される。
私企業では市場の論理からそれが実行できないならば、人権の論理による福祉国家の社会政策によって実現が図られるべきであろう。
では労働権はどこから生まれたのか。概念的にはフィヒテからとも聞くが、詳しくはわからない。カトリックでは罰として義務付けられてきた労働をプロテスタンティズムが召命としたことは、これを権利と位置付ける宗教的基盤となったであろう。
またロックが所有権を労働によって基礎づけたことは、労働を法権利として位置づけるのに有効な思想であろう。フィヒテ以降の思想の検討を含め、権利としての労働という思想の考察は、私自身の課題ともしたい。
ここで労働の「価値」という語の用い方について前述した論点が浮上する。労働を権利として位置付ける際に問題になるのは、単に商品生産に必要な労働力と言うだけでなく、労働することの意義・意味という観点である。
栗川氏がこれを労働の「主観的」意味と表現する(80頁等)のは問題を含むように思われる。単に「主観的」とされるとそれを権利として社会的に位置付けることを困難にするのではあるまいか。
商品として賃金であらわされる労働(力)の経済学的価値と、(賃労働者としてでなく)人間としての労働(すること)の価値(意味・意義)との関係性については、栗川氏自身「引き続き考えていきたい」(82頁)としており今後に期待したい。
ただいまのところ両者の関係性、特に区別の契機の弱さが、栗川氏が労働(者)の「社会的評価」を賃金の問題と不可分とする観点(70、72頁等)に結びつくように思われる。
これだと労働の「意味」をかえって商品生産の枠内に閉じ込めてしまい、俗にいえば稼ぎが多いほど「価値ある」働きだとの市場主義的観念を強めてしまわないかという疑問を感じる。
(生活書院、2025、456頁)
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